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技術と表現と

『技術と表現』をメインテーマに据えながら、自分の興味あることを日々綴っていきます

落合陽一のメディアアート論を考える

Digital Nature メディアアート 現代アート

yamamoto-info.hatenablog.com

前回は、コンテンポラリーアートを僕のような素人が理解するためのガイドブック的な記事でした。
そしてその記事というのは、今回のための布石でもあったわけです。
今ここで、落合陽一さんの語るメディアアート論について考えておきたいのです。

そう思い始めたのには2つほど理由があります。
1つは、落合さんに対する批評・評論、特に落合さんの語るメディアアート論に対する批評が特に少ないように感じているためです。
批評が少ない原因として考えられるのは、

  • 落合さんの多面的な性質ゆえに、メディアアーティストとしての側面を単体で切り抜いて語りづらい
  • 研究成果という明確な評価が背景にあるために、批評しづらい
  • 日本でコンテンポラリーアートへの批評の土壌が十分でないように、メディアアートも批評できる環境にない

あたりでしょうか。
しかしながら、それでいいのか、と正直思うわけです。
もっと多くの人によって議論され、洗練されていくべきではないでしょうか。
大学を編入してまで落合さんの研究室を志望するくらいに、敬意と好意を持っているからこそ切に思うわけです。

そして、もう1つは、僕が落合研究室に行って何をやるのか、
他人に説明するときの答えを明確化するプロセスの中で、
落合さんのメディアアート論をきちんと理解することが必須に思われたからです。

現在の落合さんの活動はとても幅が広いため、今、落合さんが自身をメディアアーティストとしてどれくらい意識しているのかはわからないですが、
僕が興味を持ったのは、メディアアーティストとしての活動があったからこそでした。
そして、結論を言ってしまえば、落合さんのメディアアート論に近い意味で、メディアアートをやりたいと思っています。

であれば、理解することは必須であり、それを備忘録的に残しておくこともまた重要と思われたことが、
この記事を書くことを決めた経緯でもあります。

魔法の世紀

落合さんの最初の著書に出てくる文意の一つに、
『メディアを作ることがアートである』
というものがあります。
これがどういうものか、前回の記事の流れに合わせて紹介していきます。

そして、最終的にこの意味が適切に理解され、議論されるようになることが僕の願うところです。

『メディアを作ることがアート』とは

(この言葉の意味するところは、『魔法の世紀』の第二章を読んで、しっかりと理解できればなんということはない話なのですが、、、)

前回の記事で、コンテンポラリーアートは文脈のゲーム、文脈によるアートだという話をしました。
ピカソ以降、ピカソへの対抗策として様々なアーティストが理論武装し、デュシャンを先頭に引っさげて、文脈戦争を仕掛けているわけです。

しかしながら、この文脈のゲームってそもそもどうなのよ、と落合さんは疑問を投げかけます。
インターネットによって文脈がトップダウンではなく、ボトムアップ的になりつつある今
文脈のゲームのままでいいのか、と言っているわけです。

さらにこれまでの文脈ゲームとしてのコンテンポラリーアートにも食らいつきます。
いくらコンテキストを重視してきたとはいえ、直感的な感動を伴ってきたはずではないか、と。
(著書内の言葉で言えば『原理のゲーム』が内在していたのではないか、と)

このように、これからのアートシーンの潮流を見極めながら新しいムーブメントを作り出すところまでやるのが、
落合さんのアーティストとしての今の活動だと僕は認識しています。

ちなみに、感覚的な感動・原理的な感動、というのはメディアを作る以外の方法でもたくさん実現できるはずだと思いますが、
美術と市場の関係を考えるならば、実は技術的なところに寄り添う方が、これからのムーブメントの中で少し生き残りやすいのではないか、
というのが僕の直感です(詳細は後述)

しかしながら、、、

しかしながら、僕はこのポストコンテンポラリーアート的なムーブメントが、日本にインパクトをもって迎え入れられることはないように思えます。
というのも、このムーブメントの最大の威力/魅力は、
デュシャンの『泉』が発表された1917年から考えれば)約1世紀に渡って行われてきた文脈ゲームに対し、
もうこれまでみたいな文脈ゲームは飽和したから終わろう、と一発大逆転をかますところにあるからです。

逆に言えば、このムーブメントには、欧米で見られるコンテンポラリーアートの土壌が必要であり、
それがない日本では、表面的なブームが起きるだけに留まるのではないかという懸念が頭をよぎるのです。


この批評なき土壌への懸念は大きいものです。
現段階でも、Rhizomatiks, チームラボ, 落合陽一といった人気のメディアアーティスト達の評価というのは人気によるところが大きく、
近代/現代美術とは不可分なはずの金銭的評価からも離れた、定量化しづらいところに位置しまっているような気がしてなりません。
もちろん、"art" + “entertainment” = “artainment"という観点を中心に語るのであれば、
消費主義の中での生存戦略としての正しさがそこにはあります。
しかしながら、アート・芸術というところで本当に話を進めていくのであれば、
この人気=評価という土台の上に、落合さんのメディアアート論が国内にもたらされたところで、
無批判に迎合する人が多数発生し(もしくは批評できる人が圧倒的に少数で)、理論の内発的・持続的発展なく終わってしまうことは避けられないと思われます。


だから、、、

だからこそ、落合さんの個展がクアラルンプールという、日本を離れた場所で初期の内から開催されたことは、
実はもっと評価されるべき点だとも言えます。

この『原理のゲーム』への帰還は、ある程度体系化された思想(インターネット文化による既存の文脈ゲームの破壊と、新たな土台作りへの船出)を伴って、
欧米のアートシーンに訴えられることで価値が十分に発揮されるわけで、
海外での活動というのはそのためのステップになっていくはずなのです。

研究者という側面において、トップカンファレンスで成果を出し続けることの重要性をうたい、
学生に世界で戦うことを促し続ける存在であればこそ、
このメディアアート論も、世界に対して発信され、その思想が世界の人たちにインストールされるように、
アート制作にとどまらない活動によって実現されていくことが求めらるように思われます。

ここまでの補足

言いたいことの趣旨を寄り道なく伝えるために、詳細を省いたところが多々ありますので、その点の補足を付け加えていきたいと思います。

現代のアーティストのあり方

このように、これからのアートシーンの潮流を見極めながら新しいムーブメントを作り出すところまでやるのが、
落合さんのアーティストとしての今の活動だと僕は認識しています。

このメディアアート論も、世界に対して発信され、その思想が世界の人たちにインストールされるように、
アート制作にとどまらない活動によって実現されていくことが求めらるように思われます。

このように記述したのには、実は背景があります。
前回の記事でも参照させてもらった、こちらの本を再び参照します。

What Are You Looking At?: The Surprising, Shocking, and Sometimes Strange Story of 150 Years of Modern Art

本書は、現代のアートを「印象派」だとか「ポップアート」だとか、そういった名前付けはまだできないとしつつも、
その中でもキーワードを幾つか出しながら、現代の特徴付けを行おうとしています。

そして、本文中に出てくるワードは、意外なものでした。

“Entrepreneurialism”

この言葉を現実と結びつける上で、本書ではダミアン・ハーストの2つの時期/出来事に着目しています。(ダミアン・ハーストを知りたい方は、前回の記事へ)

1つは、ダミアン・ハーストがGoldsmiths College in Londonに在学中の1988年に、"Freeze"という展覧会を学生らで行うのですが、
この展覧会の前後での、Charles SaatchiというSaatchi & Saatchiという広告代理店を立ち上げた人物との繋がりを指摘しています。
アーティストが、自身の作品のプロモーション・マーケティングを行い始めたという話におそらく持っていきたいのでしょう。

そして、2つ目は、2008年のリーマンショック直前に、ダミアン・ハーストが作品を画商などを介さず、
いきなりオークションに持ち込んで直接売ったという話です。
結果的に、リーマンショックの煽りを受けて、成功とも失敗とも言えない形となってしまったようですが、
しかしながらこれは、既存の近代美術において、アーティストと市場の間を取り持ち、共犯関係を築きながら市場形成に尽力してきた画商たちの存在意義の変容にも関わる重要な出来事です。

ネット時代と話を結びつけるのであれば、評価方法を民主化させるべく、作品の価値を画商が定義づけるのではなく、
エンドユーザーによって決めさせるようにするということです。

そして本書の著者は、こうした動きを村上隆さんの中にも見出しています。
村上隆さんは、アーティスト活動の中で、作品制作のために会社を作っています。
その中で、もちろんプロモーションを手掛けたりとか、戦略を練る部分というのが組織化されたりもするでしょう。

このように、現代のアーティストたちは、自分の作品を作る/売る・自分の考えを展開する、といったことをするために、
作品制作を軸にしつつも、もっと大きなものを動かしている
という点が共通しているのです。

そして、こういった活動の姿は、落合さんにも共通して見られることがわかります。

  • 作品制作(研究 / 作品を直接作る / 学生を巻き込む)
  • 思想の普及(執筆 / 取材・TV等のメディア出演)

研究を作品制作の一部に組み込んでいるため、今は大学の一研究室というポジションを取っていますが、
これにメディアアーティストとしての(現存するわけではありませんが、仮想の)会社をオーバーレイして、エージェント機能を持たせると、
村上隆さんなどの現代アーティストの行動とほぼ同様のものと見なせてくるはずです。

こうした読み解き方で、落合さんの幅広いアーティスト活動の意味を集約させて、記述しています。

日本にコンテンポラリーアートの土壌がない

これは、前回の記事村上隆さんの本によく出てきたとも言っていますが、
ここ数日読み込んでいるこの本や、近代美術の成立に寄与してきた画商たちを知ることによって、その理解がより深まっているところであります。

美術、市場、地域通貨をめぐって

近代美術と市場の成立は、19世紀の話に遡ります。
この時代というのは産業革命がなされ、近代都市の成立とブルジョア階層社会の成立してきた時代です。
それまでの美術は、基本的に貴族階級のためのものであり、そのためのシステムが成立していました。
しかし、近代化が成し遂げられると、社会の上部構造にブルジョアジーと呼ばれる、貴族とは異なる階層が誕生します。
彼らはもちろん資本家ですから、お金をたくさん持っています。

もし、自分が彼らの立場にあり、芸術というものに興味があったとすればどうするでしょう。
資本主義経済においては、お金が唯一の客観的評価軸と言っても過言ではありません。
今まで、貴族たちが独占していた芸術というものを、自分たちの手に呼び起こし、その莫大な価値を証明するためには、
彼らが拠って立つ『お金』という唯一の評価軸で測れるようにしなければならなかったのではないでしょうか。

本書では、押さえるべき画商として、リュエル親子と「ポー・ド・ルルス」(美術投資家グループ)を挙げています。
ここでは、時代的に先に活動を開始しているリュエル親子について見ます。

彼らの活動は、本書に引用される文章に集約されています。

商品製作者の発見と助言、開発融資、出版などの宣伝活動、顧客開拓を総括的におこなう投資家兼起業家になることだった

リュエル一族を近代画商と呼ぶのはそのビジネス・スタイルが近代的だったからではない。美術作品に 近代の属性 を与えた最初の画商だからだ

その近代の属性とは、

それが 先物商品 であることだった。そして、自分自身が 最初の投資家 になってみせることで、近代美術による市場を起動したのだ
(若林直樹、『退屈な美術史をやめるための長い長い人類の歴史』より)

先物商品というのは、先物取引で扱われる商品を指し、先物取引では前もって商品の売買価格を決定するわけですが、
要するに、美術作品を金銭取引の牙城に引きずり込んだことが重要と言えるわけです。

こうして、今までの『貴族 対 アーティスト』から『資本家 対 アーティスト』という構図に変わり、
作品に金銭的な属性がついて、評価が市場によるものとなっていくわけです。

ただし、ここでいう資本家というのも、社会の中では少数であることを忘れてはいけません。
市場というと、自由市場・競争原理がすぐに想像されますが、実際のところ顧客は一部のお金持ちだけ、という特殊な構図は近代以前と変わらないわけで、
この構図の中で価値を高め、保証していくために、アーティスト・画商・美術館・コレクターなどアートに関わる多様な人々の、様々な活動があって、今の美術の金銭的価値に繋がってくるのです。

これだけの歴史的文脈があって、流れが繋がっていればこそ、コンテンポラリーアートの評価をする土壌というのも豊かになるもので、
日本の資本主義は内発的ではない、と漱石に言わしめたように、つぎはぎの土台を外部や環境の力を借りながら作り上げてきたこの日本で、
市場と美術の根本的な関係まで欧米の真似をすることは到底不可能だったわけです。

※本書では現代美術は近代美術の延長にすぎない、という思想の元、近代美術という表現に統一されています。
※本を買うのが面倒な人には、松岡正剛さんの千夜千冊をオススメしておきます(僕はこの本を千夜千冊で知りました)。

1384夜『美術、市場、地域通貨をめぐって』白川昌生|松岡正剛の千夜千冊

これからの話

さて、補足をある程度したところで、本論に戻り今後の展望を見ていきたいと思います。
現代のアーティストのあり方、というところで、今世界の第一線を走っている人がどうしているかというのを伝えました。
と同時に、ダミアン・ハーストの2008年のオークションの話において、ネット時代、という言葉を用いています。

さらに、

この『原理のゲーム』への帰還は、ある程度体系化された思想(インターネット文化による既存の文脈ゲームの破壊と、新たな土台作りへの船出)を伴って、

と、述べました。

まぁ、ここからもわかるように、インターネットによって大きく社会が変わりつつある今、
そのインターネットの影響を絡めて、今後の展望を語ろうというわけです。

ただ、この文章を書くのに数日かけているわけですが、実は書いている間に当初の考えから少しずれてきている部分があります。

インターネット文化による既存の文脈ゲームの破壊

と一度僕は述べているのですが、既存の文脈ゲームをすべて破壊することはない、と思い始めています。
これは村上隆さんの本を、また新たに読んで感じたことですが、村上隆さんがもうしばらく第一線で走れそうなように、
そう簡単に世界は一変しなさそうというのを、文章から感じたからです。

創造力なき日本

とはいえ、ダミアン・ハーストの活動もそうですが、やはりインターネットの影響は確実に大きくあります。
ここで僕は、2つの影響が挙げられると思っています。

  1. 顧客とアドバイザーの関係
  2. 顧客を構成する層の変化

の2点です。

1. 顧客とアドバイザーの関係

『創造力なき日本』を含め、村上隆さんの本によれば、今現代美術の世界でもっとも権力を持っているのはアドバイザーになっているというのです。
このアドバイザーはコレクター達に、「この作品は◯年以内に◯千万になる」などの耳寄りな情報を提供して顧客を獲得し、
獲得した顧客をベースに、アーティスト達に対して、「こういった作品を作ろう」「この予算で作品を作らないか」と持ちかけたりするそうです。

で、このアドバイザーについて、僕が重要だと思うのは、
アドバイザーと顧客(コレクター)との間においてのみ、明確な自由市場が誕生しているのではないか
ということです。
情報時代になった今、ありとあらゆるもの同様、アドバイザーの評価も第三者視点に移され、民主化されるようになっているはずです。
(アドバイザーの活動歴は、オンラインでもおそらく入手できる情報が増え、今までよりは自由市場的に評価が変動するようになっているはずです)

こうなることによって、より顧客が市場を動かすようになります。
新聞・雑誌・TVなどのメディアを使ってニューヨークが文脈を作っていたように、アドバイザーが文脈を作り出すことが難しくなっているはずなのです。

現に、どこかで、
「今、オイルマネーをベースにした中東諸国からコレクターが増えている。彼らの金遣いによって、美術市場の変動域が大きくなっている」
といった言説を見かけました。
もちろん、中東からのコレクターもアドバイザーを雇っているそうですが、とはいえコレクターの趣向が強くなっているはずです。
そうなることで、美術市場には多様性がもたらされ、1つの文脈では語れなくなっていくわけなのです。

2. 顧客を構成する層の変化

1.ではオイルマネーをベースにした中東からのコレクターを例にとりましたが、
インターネットが発展すれば、IT企業が圧倒的に儲かっているわけで、
これらの企業のCEOやそれに準ずる富裕層というのも、新たな属性を持ったコレクターとして存在感を増してきているはずです。

日本では、唯一それにあたる人はZOZOTOWNの運営会社社長の前澤さんくらいでしょうか。

forbesjapan.com

彼が買ったのは、バスキアというスプレーペインティングを行っていたアーティストですが、
インタビュー記事を読んでみても、まさに趣味嗜好で購入したというのがはっきりわかります。

そして、これはあくまで推論の域を出ませんが、インターネット文化に触れている人達というのは、インターネット文化という大きな共通項(属性)を兼ね備えていくと思うわけです。
そうすると、これまで述べてきたように、顧客による影響力・文脈が肥大化していく中では、今までとは違う潮流が誕生してもおかしくないのです。

メディアアートの立ち位置

このようにインターネットによる影響を考えた上で、メディアアートはじゃあどうなっていくのか、ということも考えてみます。
最初の方で、このことを考えた時、詳細を後に回した部分がありました。

美術と市場の関係を考えるならば、実は技術的なところに寄り添う方が、これからのムーブメントの中で少し生き残りやすいのではないか、
というのが僕の直感です(詳細は後述)

この『技術的なところに寄り添う』というのが肝です。
その理由も2つほど挙げられます。

1つは、上述の新顧客層として期待されるIT企業富裕層たちへの求心力があるのではないかという点です。
というのも、彼らが顧客になるのであれば、趣向としてテック系に寄る可能性が大きいと思えるからです。

もう1つは、技術込みで買うという新たな購買方法ができてもいいのではないかという点です。
落合さんを例に出しますが、落合さんの作品は研究を背景に作られている作品ばかりで、
技術単体で見ても非常に価値の高い作品となっています。
もし、その技術がより専門的になり、特許レベルの話になっていくと、技術と芸術をパッケージ化して高値で売るという手も出てくる可能性があるのではないでしょうか。

最後に

これからのメディアアートを語っている部分は、自分の希望・願望も混じっている歪んだ見方ですから、
当然反対意見はあると思いますし、すでに理論の破綻がどこかで見られているかもしれません。

しかしながら、近代の歴史にまで遡って全体感を見ながら落合さんのメディアアート論を捉えようとしたことは、
僕自身にとっては色々なものを理解する良き機会となったことは間違いありません。

この考察が多くの人に読まれて、多くの人に意見されるものになれば、嬉しいなぁと思いながら、
非常に長文となったこの記事を締めさせていただきたいと思います。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。