技術と表現と

『技術と表現』をメインテーマに据えながら、自分の興味あることを日々綴っていきます

市街劇はVRによって現代に復元できるのではないだろうか

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市街劇はVRによって現代に復元できるのではないだろうか


以前から演劇×VRについて考えているということは、このブログでも記述してきましたが、
その企画は今、中断という形になってしまっています。
ひとえに自分の諸能力不足が原因であるのですが、
ただ、考えてきたことには価値があると思っています。
自分の備忘録として、これから次のアクションのためにも、

  • この企画をどうやって実現しようとしたのか
  • 何がダメだったのか
  • 今考えていること

を色々と書いておきたいと思います。
(たぶん、一回にはまとまりきらないですが)

そして、この企画を一番まとめて記録してある企画概要資料を載せておきます。

www.slideshare.net

ベースになる資料を自分が作り、友人にデフォルメしてもらってあります(掲載許可はもらっています)。
上記の資料内容も参照しながら読み進めていってもらえればと思います。

ことの始まり

そもそもこの企画を思いついたきっかけは何か、という話なのですが、これは120%寺山修司のインタビュー映像を見たことによります。

www.youtube.com

自分の人生の中にも過激な出来事を、ドラマティックな出来事を期待しているけれども、

自分の実際の生活の中では何も起こらないと。 で、それを劇場に行って身代わりのドラマを求めている。

とか

それから自分が観客席に座って、安心だと思っているけれども、観客席の隣に座っている人が俳優ではないと誰が言い切れるかと。

とか。

これは広義のVRを考えるときに非常に精通してくる話でもあります。
普段、日常空間だと思っている空間は、なぜ日常空間なのか。
単に自分自身で勝手に定義しているだけではないのか。

そして、自分の実際の生活では劇的なことは起こらないから、
それに成り代わるものを様々な形で欲しています。
SNSもしかり、ドラマ・映画もしかり。ニュース番組やWebメディアなんかも拡張して考えてみれば、同じことです。

この命題は、IT技術が発展・浸透した今、より一層色濃く立ち現れるわけなのです。
まさにMR・ARあたりは、この命題に正面からぶち当たります。

https://www.youtube.com/watch?v=aThCr0PsyuAwww.youtube.com

この動画は、Microsoftが発売しているHololensのコンセプト映像ですが、
これが現実で、これがホログラムである、というのは人間や企業が保証する前提によってのみ立っています。
そんな世界は、まさに寺山修司の考える劇的な空間と言っても過言ではない、と僕は強く思うのです。

ではそれをどのように現代に再現しようとしたのか

寺山修司のインタビューを見て以来、市街劇というもののインパクトに圧倒され続けてきました。
これはまさに、現実空間に仮想の世界を上書きすることの、最もアナログかつ原始的な方法です。

www.youtube.com

市街劇ノックなどで、例えば一般の道中、「サンドバックを殴ってください」と語りかけてくる変な人(演者)がいたりします。
声をかけてくる人が演者であると知っている人たちは、その現場を見るときに、現実と虚像(演技)の区別がつきますが、
知らない人からすると、その変な人も現実の一部なわけです(現実にいる変な人、と認識する)。

現代のわかりやすい例で言えば、ドッキリがそれに当てはまるかもしれません。
それがドッキリであると知っている観覧の人・TVの視聴者からすれば、ドッキリ中の仕掛け人の言動は虚構だとわかっています。
でも、それを知らない、ドッキリを仕掛けられている人にとってみれば、虚構ではなく現実に見えてしまうのです。

これはMRという技術を知らない人が、映像で映し出されているものと実際のものの区別がつかない状況と全く同じ構図と言えます。

つまり、市街劇はVR, MR技術を使うことによって、同じ構図を再現できるのではないかと思えてきたのです。

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図にしてみると、こんな感じです。 市街劇では、観客が知っているということで、「先入観」とかそういった類の、概念的なフィルターが効果を発揮します。
一方で、映像作品というのは、すべて「カメラ」という物理的にも概念的にもフィルターを通っているわけです。
両者のフィルターは、現代において、実質同じ機能を果たしていると言えます。

さて、ここで大事なのは、特に右側です。
私たちは、数多くの映像作品に日々触れているわけですが、
映像の中で起こっていることを見るときに、無意識のうちに様々な前提条件を置いています。

  • (ドラマや映画などでは)人が死んでもそれは嘘である
  • 生放送、というのはどこにも確証がなく、実際は大衆が互いに監視役と化すことで成り立つ、概念的なものに過ぎない

こうした環境になれているわけで、特に生放送というものは脆弱なことこの上ないわけです。
VRを使った市街劇は、ここに対して強烈な揺さぶりをかけることができます。

(続く)