【Rhizomatiks × 野村萬斎】 FORM ~三番叟~ を見て
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【Rhizomatiks × 野村萬斎】 FORM ~三番叟~ を見て
あけましておめでとうございます。
新年早々、というにはもう時間が経ってしまいましたが、久しぶりに書いていこうと思います。
あと、今年は読んだ論文についても投稿していくようにしていきます。
さて、タイトルにある通り、新年早々(1/3に)舞台を見てきました。
Rhizomatiks(真鍋大度)× 野村萬斎
という、完全に面白そうな組み合わせだったので、めっちゃ期待値高かったです。
しかも、行ってみてパンフレットを見て知ったのですが、
照明を藤本隆行さん(dumb type)が監督しているという。
藤本隆行さん自体は今まで知らなかったのですが、
Rhizomatiks × dumb type
という日本メディアアートシーンのエモオブエモって感じで、最高ですね。
では実際どうだったのか、という話に移っていきます。
前半:半能「高砂 八段之舞」
これが予想外に良かったです。
能を観るのは、自分は中学のときに校外学習的なので観させられて以来だったのですが、
中学のときに観たのは、ものすごく静かで寝てしまった記憶があります。
しかし、今回見たのは(半能という後半部分のみということで、いきなりクライマックスだったせいもあると思いますが)、
かなり激しいものでした。
上に載せた動画は、自分が見たものとは少し違いますが、雰囲気は似ています。
「いよぉ〜」というよく歌舞伎などで聞くような声?がBGMの一端を担っている形になり、
こういった日本独自のBGMもあるものなんだな、とすごく関心したものです。
後半:「三番叟」
新年やおめでたい祝賀の会など儀礼的な場で舞う祝典曲で、狂言方が務める役と、その舞事のこと。神が、地上に降り立ち、五穀豊穣を祈願するという三番叟。足拍子が多用されるのは、農耕儀礼に関わる地固めの意味も含まれており、舞うことを「踏む」ともいいます。面(おもて)をつけず、足拍子を力強く踏み、軽快に舞う「揉(もみ)ノ段」と、黒い老人の面(黒式尉 こくしきじょう )をつけ、鈴を振りながら、荘重に舞う「鈴ノ段」などに分かれ、歌舞伎舞踊や各地の民族芸能でも重要なレバートリーの一つです。日本の伝統芸能の真髄ともいえる究極の舞「三番叟」、その至芸を極めたいと思っている萬斎にとって最も大切な演目です。
この三番叟については、野村萬斎がインタビューなどでコメントしているのも見たことがあり、生で見る新鮮さがありました。
(1/11 追記:三番叟・ボレロについて野村萬斎がインタビューに答えている映像があったので、追記しました)
また、野村萬斎はこれまでにも能と何かをコラボさせてきた経緯もあり、 その安心感というのもまたあります。
では、今回まずどういう構成だったのか簡単に振り返ります。
- 踊り手:野村萬斎のみ
- 音楽:録音してある能の音楽をBGMで固定+evalaさんによるノイズ的なものを客席横らへんのスピーカーなどを利用しながら流す
- 映像:後ろで流しっぱなし(インタラクション性はなし)
- 照明:舞台上部からの舞台照明と、左右からの照明
踊り(舞)について
野村萬斎×羽生結弦の対談動画中にも出てくる、三段跳びを生で見れたのが良かったというのが一点。
それから、能・狂言の中での舞というのは、着物を着た上での美学なのだなと改めて思いました。
能や狂言が生まれた当時は、当然観客は皆着物を着ているもので、
着物を着たまま舞うことの難しさを全員が前提として共有している上、
それの動きを綺麗に見せることが観客の心に響きやすかったのだと思います。
しかし、今の時代で考えると、もっと身体性を強調してもいいのかなと思います。
今のダンスシーンを考えると、男でも大概スキニーパンツだったり、体は軽くしながら様々なアスリートちっくな動きを取り入れるなど、
ファッション性より身体性が強調される時代に思われます。
その中で、着物を着た舞における美学というのは、観客受けがそこまでしないことが想像にたやすいわけです。
着物にもっとデジタルな要素を組み込んだり、
透明度を上げて、身体性が強調できるような工夫をしたりしても面白いだろうなと思います。
音楽について
すでに録音した音楽に合わせて踊るというのは、能においては窮屈そうだなというのが見ていた感想です。
三番叟では途中から踊り手が鈴を持ってそれを鳴らすのですが、
BGMとその音を合わせるのが大変そうでした(タイミングを取っている様子がよく伝わってきました)。
能で普段、生身の人間同士が阿吽の呼吸で合わせているので、それと比較するとそう見えてしまうのでしょうね。
それと先にも書きましたが、
「いよぉ〜」などの人間が出す声をBGM的に使うなど日本における独特なBGMがここにあるな、というのも面白い点です。
次にevalaさんのノイズミュージック的なものについてですが、
座った場所が悪かったのかもしれないですが、音量に関しての不快感が多少ありました(意図的に不快感を生んでいるかもしれないですが)。
あとは、まぁいいんじゃないでしょうか(そんなに感想ない)。
映像
実に抽象的な映像でした。
それが良かったと自分は思っています。
歌舞伎とプロジェクションマッピングを組み合わせた舞台の映像をどこかで見た記憶がありますが、
それの場合、歌舞伎を映像に合わせているとようにしか見えず、めちゃくちゃ陳腐になっていました。
その印象があった分、舞台上の舞を第一優先にして
影のような機能を一部働かせながら、抽象的なまま映像を流していたのがクールだと思います。
(↓メイキングに関するネタ一部)
照明について
超特別な照明演出はなかったですが、
隙なくきっちりやっていたのが良かったです。
能に照明演出がそもそもないのですが、照明演出入れるだけでもだいぶ近代的で、洗練された舞になるように思われます。
全体を通して
今回これ見て思ったのは、
能はもはや現代においてはダンス・舞踊の分野に分類されるなということです。
まず言葉が昔の言葉なので、聞き取れても何言ってるかわからない。
ストーリーも相当昔の話なので、背景がわからなすぎて共感できない。
そうなると、言葉やストーリーから受け取れるものがなくなり、
残るのが、BGMと演者の舞です。
これはまさに現代のダンス・舞踊の構成と全く同じです。
そうしてみてみると、能からも色々なことが学べる気がします。
古典にこそヒントは色々詰まっているというのはよく言ったもので、
これからも注目していきたいと思いました。