Computer Graphicsから見る 建築/空間/インテリア 論
『建築/空間/インテリア 論』といっても、僕はその分野を大学などで専攻しているわけではありません。
唯一やっていたとすれば、建築の照明デザイン事務所でバイトをしていたくらいです。
今は研究で『空間』を扱う流れでComputer Graphicsをメインに進めています。
「お前なんかが語る資格あるのか」
と、どこかしこで言われそうですが、ちょっとしたきっかけで考える機会を得たので、自分の考えをアウトプットしておこうと思います。
なぜこういう話をするのか
ちょっとしたきっかけというのは先日見に行った『安藤忠雄展 〜挑戦〜』のことです。
この記事の中で安藤忠雄の「信奉心」に気づかされるまでの、技術をベースにした批判的目線、がまさに今回の記事の中心です。
ただこの話をするためには、昔を振り返る必要があるのです。
ちょっとだけつまらない昔話にお付き合いください。
照明デザインの仕事をしていた時に
話はちょうど一年前の今頃。 照明デザインの事務所でアルバイトをしていた頃の話です。
建築関係の授業すら受けたこともない経済学部生だった僕ですが、とにかくComputerに対しての慣れが強かったという点だけで仕事を早く覚え、なんとかバイトとして雇ってもらえるに至ったわけです。
そのバイト内容というのも、
が主だったもので、このCGソフトを使うというのが僕にとって物凄く新鮮でした。
今まで使ったことがなかったというのももちろんあるのですが、実際に建設する建物が全て3Dデータとして作成されていて、自分の手で動かせてしまうというのが少し感動的でした。
そんな中、社員の方にこんなものをオススメされたのです。
学生がただプレゼンをするだけの会ですが、審査員はなかなかに有名な人が多いらしく、ノリで応募したら通ったのです。
<審査員> 島春喜/照明器具輸入会社・社長 [株式会社モデュラー・ジャパン代表取締役] 赤松 佳珠子/建築家 [CAt 株式会社シーラカンス アンド アソシエイツ] 小坂 竜/インテリアデザイナー [株式会社乃村工藝社 A. N. D. クリエイティブディレクター] 行方 瑞木/インハウスデザイナー [大光電機株式会社 東京TACTデザイン課] 円卓会議・照明楽会メンバー
その時のプレゼン資料がこれなわけですが
大きな文脈で言えば「虚と思われがちなシミュレーション系を実として扱い、虚実融合を図る」というものです。
VRやARの文脈を考えれば当たり前の話で、今後「シミュレーション」自体が体験できる世界になるという概要です。
ただ、審査員にいる方はデザインや建築の畑で育ってきた人々ばかりで、
「なぜ虚と実のままではいけないのか?」
という質問をぶつけられたりもしました。
この断絶は正直、価値観/未来感の違いに起因するもので、断絶を解消するための効率的な施策はないと直感しました。 「虚と実が混じるような現実が顕在化しない限り、あの人たちには直感的に理解してもらえない」 というのがよくわかったのです。
それからです。 より一層、「シミュレーション」と「現実の物質世界」の融合を考えるようになったのは。
そして、その思考の積み重ねが安藤忠雄の展示会でむけた「技術をベースにした昔の人々の視座に対する批判的目線」へと繋がっていくのです。
『安藤忠雄展』を通して感じた疑問点/違和感と考察
さて、それでは実際にどういう批判的目線を持っていたのか、改めて具体的に書いていくこととします。
まず1つは、展示会に入ってすぐのところにある、水彩画的スケッチを見た時のことです。 これを見た時に、この手法の建築設計は「絵画的世界を建築物に投影するポエティックなもの」だと感じました。
どういうことか。 それはメディアアーティストの藤幡さんの文章を読むとよく分かります。
Computer Graphicsは幾何学の世界。幾何学というフィルターを通してものを見た結果なのだ
水彩画的スケッチは、絵画の手法をベースに成立します。 絵画の手法というのは、写真以前の話で考えれば遠近法とは違う独自のルールをもっていたわけです。 もちろん、写真以降の遠近法に基づく手法をベースに書かれているかもしれません。
しかし、ここで重要なのは、「Computer GraphicsやCADに利用される幾何学のルールとは違うルール」をベースにしているという事実です。
『建築倉庫』という建築模型が大量に展示されているところに行ったことがあるのですが、そこで多くの建築物を一覧で見た時に「丸・三角・四角で構成されてる感」を強く感じました。
これは今思えば、機械のフォーマットに人間が合わせていった中で自然と扱いやすい幾何学にすり寄って行ってしまったからではないかと思います。
おそらく、スケッチなどをベースに絵画的に全体像を描いて作る建物はもう少し幾何学と離れると思います。 コンピューターを使わずに設計している建物にはそういう特徴もあるのではないでしょうか。
そしてもう一つ安藤忠雄に関して思ったのが、コンテンツ自体での・文脈としての技術(幾何学)と自然の融合は果たされているかもしれないが、それはコンテンツとしてでしかなく、設計手法や建築物が作成されるプロセスにおいては、何ら融合を果たせていない、という点です。
この感想を抱いてから、安藤忠雄の「信奉心」への気づきへ移行していったわけですが、批評として続けるならば、安藤忠雄はプロセスにおける融合を果たせていません。
僕自身は、Computer GraphicsやComputer自体などプロセスにまつわる機械たちへの興味・関心が強く、その視点からものを見る傾向にあるので、プロセスが既存のものから脱却できていなければ、脱ポストモダニズムができないと思っています。
この思いを安藤忠雄に対してぶつけるのもおかしな話かもしれませんが、展示会の一片にも未来に対して示唆のあるところが見当たらなかったので、違和感や怒りを感じてしまうのです。
想定される人々のおかしさ
そして、話は少し安藤忠雄からフォーカスを外し、建築全体への話に持っていきます。
照明デザインの学生プレゼンの時から感じていた話なのですが、建築界隈で語られる「人々」の像があまりにも現在と一致していないのが不思議でなりません。
都市計画の卒業制作などの話を聞いていても、主に語られ想定されるのは「田舎」の話であり、インターネットや先端技術とは無縁の「数十年前のプリミティブな人間像」をベースに制作されているのです。
ありえない話だと思います。
このことを落合研に来ている建築学科のやつに聞いてみると納得の回答が帰ってきました。
建築界は教授と生徒の師弟関係的側面が強い。そして、界隈が割と閉じた状態になっている。だから、学生がその内なる世界で評価を得ていくためには、一回りもふた回りも離れた教授に納得してもらえるようなものづくりをせざるを得なくて、そうした結果、人間像とか諸々のフォーカスがずれたアウトプットが出来上がる。
ということだったのです。 分かりやすい、とても納得のいく説明です。
この分析をベースに考えれば、どこにも悪い人はいません。 皆が自分の正しいと思う道を信じているからです。
ただ、僕にとっては違和感のある人間像でしかないし、オープンに議論され評価されることのない場所で醸成されたものには、懐疑の目を常に持つ必要があると感じます。
未来の話
さて、そして僕の思う未来の話を少しします。
これは主に、建築のプロセスをどう脱ポストモダンしていくかというところです。
既に述べて来たように、僕の主張のメインは、
プロセスでComputer Graphicsを利用しているのだから、Computer Graphicsというものが世界に対してどういうフィルターの役割を担っているか、自覚的になり、選択的にプロセスを選び・デザインできなければいけない
というものです。
これができなければ、いつまで経っても「丸・三角・四角」から脱却できない建築ばかりが存在してくることになってしまう気がします。
安藤忠雄展や建築倉庫などで多くの建築模型を見てきていますが、一番印象に残ったのは結局『代々木体育館』でした。 (「水面の利用」や「美」という観点でいえば安藤忠雄も個人的には好きな方ですが、モノとしてはあまり印象に残らなかったです)
あの脱「丸・三角・四角」を何十年も前に成し遂げているのは、驚愕の事実です。
「技術と表現」をどう両立させ、融合させていくかというのが時代の先頭に立つものたちに降りかかる命題です。
ただ作業の効率化などのためだけにComputer Graphicsを利用し、技術に呑まれるようではエポックメイキングを成せるはずもないのです。
これからのことを考えれば、Computer Graphicsの持つフィルターを着脱可能にし、プロセスからデザインを再構築できる建築家が出てきてしかるべきだと僕は今考えています。
僕自身の興味は主に「空間」なので、インテリア寄りの制作や研究がメインになってくると思いますが、研究内容自体を持って、このプロセスの再構築に繋がることができたらな、と密かに思っているのです。