人類は概念になるのである
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人類は概念になるのである
人類はどこへ向かっているのか
よく聞く疑問である。
人工知能(AI)の発達により、「人とは何か」「意識とは何か」「自己とは何か」という話が頻繁に出てくるようになった。
僕もその中で面白い本を幾つか読んできた。
その中で感覚的に思っていることは、
1. まずこれから実体の時代になる(自己を確かめる主たる方法が自己の肉体に依存するということ)
2. その後、概念の時代になる
というものである。
自己を確かめる主たる方法が自己の肉体に依存する
これは要するに、自分が自分たり得るのは、この肉体ゆえである、という話だ。
VRなどのレベルが上がっていけば、視覚・触覚・味覚などを生み出すものたち、入力値が徐々に機械的なものに代替されていく。
それは自分を周りの環境との干渉の中で定義していくことが難しくなっていくことを意味する。
そうなってしまうと、自分を確かめる最も身近で確実な方法が、自分の肉体から得られる感覚情報に狭まっていくわけだ。
しかしながら、この感覚情報もやがて機械に代替されていくだろう。
iPS細胞とかの話もそうだが、万能細胞などから生成される有機物で自分の肉体を置き換えていくと、信号は伝搬してくれるし、肉体的感覚情報は確かにあるが、それは人工物という世界になるわけだ。
すると、肉体は全て代替可能になっていき、自分が自分であるということを確かめる方法は徐々に肉体から離れていくだろう。
で、どうなるか
「我思うゆえに我あり」
この思念体・概念のような意識体のことを自己と置くようになるであろう。
この意識の話は、言語の問題から切り離しても最悪いいだろう。
意識を自分で意識できているかどうかは曖昧でいい。
ただ、感覚的に、感覚情報などに対してメタ的に存在する流動体が自己である、という論法が自己定義の主たる方法になっていくはずである。
さて、ここで本題に移る。
そもそも人はなぜ様々なものを技術に代替していくのか、という話である。
人工臓器もそうだが、最終的に肉体が代替可能なものになるというのは、つまり肉体を技術的に再現可能にしたということである。
だが、そもそもなんでそんなことをするのか、ということである。
これに対する自分なりの解を今日思いついたのが、この記事を書こうと思ったモチベーションである。
解の核心となる話は以下の引用文だ。
500万年前、人類と類人猿がわかれた。つまり、この頃から人類は他の動物とは異なった、独自の進化を遂げはじめたのである。人類は進化するにつれ、多種多様な道具を使うようになり、脳の容量も増えていった。また、顔や歯はだんだんと小さくなっていった。
(人類誕生 より)
「人類とは何か?」
それは「技術/道具を使う生物」の進化系と捉えていいだろう。
人類だから技術/道具を使うのではない。
技術/道具を使うから人類なのである
顔や歯はだんだんと小さくなっていった
この一文に集約される。
歯をなぜ小さくできたか?
それは、強い歯によって噛み砕けるレンジを広げる代わりに、道具で硬いものを砕けるようにしたからだ。
強い歯を道具で/技術で代替したのだ。
これはつまり、人類は肉体に依存するのではなく、それらを俯瞰する立場 / メタ的な立場に存在することを始めたと言ってもよい。
(脳の肥大化は、自らのメタ化の加速なのだ)
ここに人類の本質の出発点がある。
技術を使うというのは、自らをメタ的ステージに押し上げることなのだ。
人類の自己は肉体にない。
それらを俯瞰するメタステージにあるのだ。
人類発展の歴史は、この本質の繰り返しにすぎない。
行き着く果ての一つは、小さい太陽を作った、核分裂という技術である。
体毛を毛深くするという肉体依存の対処ではなく、最終的には太陽を作ってしまえばいい、気候を制御してしまえばいい、それを技術で代替してしまえばいい。
だから、人類が肉体に依存する自己確認から離れ、最終的に概念になるのは本質なのだ。
恐れることはない
はるか数百年前から出発した長い物語の一部にいるにすぎないのだ